山田正亮

BS 活動報告 2017. 5.21

2017年度2回目のBodySynergy研究会、三橋が担当させていただきました。

今回は半年前ほどに読んだ伊藤亜紗さんの著書「目の見えない人は世界をどう見ているのか」(光文社、2015年4月初版)という本を手掛かり・入り口に感覚を横断する・代替する・補完する・交換する・統合するといったことをテーマに個人での作業からペアワーク、グループワークを通して探っていきました。

まずなぜ今回このようなテーマを選んだのか?ということに軽く触れたいと思います。現在私はダンサー、振付家(作家)としてダンス作品を舞台などで上演する活動を行なっています。活動をしていく中で「ダンスはよくわからない」という言葉を耳にします。もちろん見方に正解があるわけではないですし、それぞれの感じ方があって良いのですが、当事者からそのように言われても観ている側は釈然としない部分があるでしょう。そのような現状で鑑賞者層は絞られていき、非常に狭い世界になっています。ただこれはダンスに限ったことではなく、他の芸術表現にも共通していること、つまり「芸術は難しくてよくわからない」ということ。観たい人だけに観てもらえればいい、と割り切ってしまう前にやれることはやりたい、という思いが個人的にあります。BodySynergyの活動にはそのヒントがあるように感じていて、今回ファシリテーションする機会をいただけたので「作品を見る」という感覚的なことをどのように捉え直すことができるか、再発見できるか、ワークを通して探りたいと思いました。

 以下はレジュメにワークショップ後に加筆したものです。

  1. 著者・伊藤亜紗さんの紹介

→東京工業大学リベラルアーツセンター准教授、美学を専攻

→美学とは?

簡単にいうと芸術や感性的な認識について哲学的に追求する学問。さらに平たく言えば言葉にしにくいことを言葉で解明していこうとする学問。

  1. 感覚とは?

→刺激受容器の活動とそれに続く皮質感覚領までの神経活動に密接に依存していると想定される意識経験。アリストテレス霊魂論でヒトの感覚を初めて分類し、視覚聴覚触覚味覚嗅覚の5つがあるとした。これが広く知られる五感であるが、現在は実際にはそれ以上の数の感覚、例えば圧覚,痛覚,冷覚,温覚,運動感覚平衡感覚,内部感覚などがあることがわかっている。

  1. 体性感覚

触覚、温覚、冷覚、痛覚、食感、くすぐったさなどの表在感覚と運動覚(関節の角度など)、圧覚、深部痛、振動覚などの深部感覚がある。

  1. 内臓感覚

内臓に分布した神経で、内臓の状態(炎症の有無、動きなど)を神経活動の情報として感知して、脳で処理する仕組み。吐き気などの臓器感覚、内臓痛など。

  1. 特殊感覚

視覚、聴覚、味覚、嗅覚、平衡感覚などがある。

  1. 他の感覚

体に対する意識である固有感覚(体の様々な部位の位置する場所を感じているという“無意識”)、痒みの感覚(痛覚の軽いものと思われていたが、近年独立した感覚である可能性が示された)

⇨今回はシンプルにいわゆる五感(視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚)ということで進める

その上でそれぞれの感覚器官(視覚=目、聴覚=耳、嗅覚=鼻、触覚=皮膚、味覚=舌)を横断する、ということをまず考えてみる。

(例)

脈をとる、他人の脈をとる、遠くの音を聞く、皮膚で聞く、

→触覚と聴覚の近く感覚、

擬音語、擬態語

→例えば「ぬめぬめ」や「しっとり」という音(=聴覚)から受ける触覚のイメージ

⇨実は無意識にも複合的に、横断的に感覚を使っているということ。盲や聾の方々が特別な感覚を持っているということではなく、横断的・統合的に感覚を使うことで感覚を補っているということ。

⇨統合的に感覚を使っているとしても、視覚から得る情報というのが8〜9割を占めている

→視覚への依存、優位性

→聴覚、視覚という上位感覚と、触覚・味覚・嗅覚

 “5つのうちもっとも「優れた」感覚は何か。ご推察のとおり、それは視覚です。時代による多少の変遷はありますが、資格は基本的に「感覚の王」の座に君臨してきました。ただし、これはわたしたちが視覚から最も多くの情報を得ているということではなくて、視覚がその機能においてより「精神的」であるという意味です。〜(中略)〜視覚に次いで高次の感覚は聴覚です。聴覚も精神的な活動と結び付けられます。〜(中略)〜これら二つの感覚が圧倒的に優位な上位感覚で、これに嗅覚、味覚、触覚が続きます。「視覚/聴覚」と「嗅覚/味覚/触覚」という二つのカテゴリーを分ける基準は、対象に接触しているかどうかです。”

-「目の見えない人は世界をどう見ているのか」(頁94〜より抜粋)-

→教育による感覚の移行、後者の3感覚は公共の場でネガティブな印象を与えることと密接に関わっている

“公共の場で触覚がネガティブな印象を与えることと密接に関わっているのが、「感覚にはヒエラルキーがある」という伝統的な考え方です。つまり人間にあるとされる5つの感覚は、それぞれ対等なものではなく、優れたものと劣ったもの、価値の優劣があるというのです。”

“(前略)目の力によって対象と自分を分断し、境界線をはっきりとさせること、それが近代における「大人になる」ということです。低次の感覚から高次の感覚へ−教育とは、まさに子どもを触る世界から見る世界へ移行させることなのです。”

-「目の見えない人は世界をどう見ているのか」(頁93,96より抜粋)-

→視覚や聴覚というのは社会的な感覚?

(例)世間の目、国民の声

  1. ブラインドウォーク

→視覚という上位感覚を閉ざし、後者の感覚を開いてみる。

 (1)「目をつぶる」と「目が見えない」の違い

 “見える人が目をつぶることと、そもそも見えないことはどう違うのか。見える人が目をつぶるのは、単なる視覚情報の遮断です。つまり引き算。そこで感じられるのは欠如です。しかし私がとらえたいのは、「見えている状態を基準として、そこから視覚情報を引いた状態」ではありません。視覚抜きで成立している体そのものに変身したいのです。そのような条件が生み出す体の特徴、見えてくる世界のあり方、その意味を実感したいのです。

 それはいわば、四本脚の椅子と三本脚の椅子の違いのようなものです。もともと脚が四本ある椅子から一本取ってしまったら、その椅子は傾いてしまいます。壊れた不完全な椅子です。でも、そもそも三本の脚で立っている椅子もある。脚の配置を変えれば、三本でも立てるのです。”

(2)ブラインドウォークの実施

・二人人組になる

・一人が目を瞑り、自由に散歩する。もう一人は危険がないようにそれを見守る。

→特にナビケートするなどの必要はないが、基本自由。

・視覚以外の感覚を拓く

 

  1. ソーシャル・ビュー

“(前略)通例、美術館では声を出すことはあまり奨励されていませんから、鑑賞は個人的で内向的な経験になりがちです。しかしこのワークショップでは、積極的に声を出してグループの仲間とやりとりしながら作品を鑑賞していきます。人と関わりながら見る。だから「ソーシャル」な「ビュー」というわけです。”

-「目の見えない人は世界をどう見ているのか」(頁158より抜粋)-

→見えない人と行う美術鑑賞。目(視覚)も手(触覚)も使わずに作品にアクセスする。

実施方法(今回の場合)

・いくつかの画像を用意する(本当は実物が好ましい)

・グループ内の数名は目を瞑り(もしくは画像を見ない)、他の参加者が画像について説明する。その際「情報」と「意味」の両側面を伝える。

・目的はその画像を思い浮かべ当てる、ということではなく「どのようなコミュニケーションが生まれるか?」「(他人の感覚を交えることで)どのような発見があるか?」

 

 (使用した画像例)

Daniel Kukla「エッジ効果」

Daniel Kukla「エッジ効果」

Salvedor Dali「秋のカニバリズム」(1936,油彩, 60 x 60 cm)

Salvedor Dali「秋のカニバリズム」(1936,油彩, 60 x 60 cm)

山田正亮「Work C.18」(1960,油彩, 33.0 x 24.0 cm)

山田正亮「Work C.18」(1960,油彩, 33.0 x 24.0 cm)

 

(1) 「見えない人がいることでその場のコミュニケーションがどう変わるか」

(2)「情報」と「意味」

→客観的な情報(視覚的な情報)と主観的な意味(感想)

“「鑑賞するときは、見えているものと見えていないものを言葉にしてください。」「見えているもの」とは、文字通り目の前にある、たとえば絵画の大きさだとか、色だとか、モチーフなど。ひとことでいえば「客観的な情報」です。「見えていないもの」とは、その人にしか分からない、思ったこと、印象、思い出した経験など。つまり「主観的な意味」です。”

-「目の見えない人は世界をどう見ているのか」(頁164より抜粋)-

【まとめ】

今回は最後に行ったワーク「ソーシャルビュー」ということをやってみたい、というところから全体を構成していきました。「ソーシャルビュー」が前述した「作品を見る」という感覚的なことをどう捉え直すか、につながると感じたからです。そしてこのワーク自体が「美学」である、とワークを行いながら感じました。同じ情報を得ながらそれぞれの感覚、感性を通して異なる意味が生まれ、それを伝えるために言語化する。人と意見を交わしながら作品を見ることで自分とは違った見方による新たな発見、作品に対する眼差しの深化、多様な主観(≒主観的な意味、感想)の交換や受容、もしくは否定。最初に述べたように芸術作品の見方に正解はない、と言われています。しかしそこに自分が見出す意味を知ること、それが自分を知ることにつながるのではないかと思います。感性を言語化し、自分の血肉とすること、そのとき各個人の中に「芸術」が存在する意味が生まれてくるのではないでしょうか。個人的には芸術とはモノの見方、世界の事象に対して美しさ・面白さを発見することなのではないかと思っています。そしてそれは感覚や感性を通して起こることです。様々な技術が発達する中で、便利に生きていける一方、鈍化していく感覚というものがあります。その波に流され続けるだけではなく、時には立ち止まって身体や感覚を取り戻す必要もあることでしょう。

今回のワーク全体を通して感覚を言語化することの重要性、そのための方法論の糸口がつかめました。個人的にも今後さらに深めていき、わかりやすさや観客が観たいもの、ということを意識しすぎずに自分のやりたいこと、表現したいことを作品化することを作品含め、それを取り巻く環境から考えていきたいと思います。